ヴェーダーンタ派のバースカラによる『バガヴァッド・ギーター註解』は,シャンカラが註解をなした『ギーター』流布版とは異なるバージョン,いわゆるカシュミール版に対する註解であることが知られている.先行研究の示すところによれば,バースカラが註釈した『ギーター』は流布版およびカシュミール版の原型であった可能性もあり,バースカラの引用した『ギーター』は彼の活躍した年代や地域について考える上で貴重な資料である.本稿では,バースカラの『ギーター註解』に採用された『ギーター』本文の読みをシャンカラの採用する流布版の読み,及び,アーナンダヴァルダナ,ラージャーナカ・ラーマカンタ,アビナヴァグプタといったカシュミール版ギーターに対する諸註釈に採用された読みと比較し,カシュミール版ギーターの特徴について概観した.また,バースカラの『ギーター註解』及び『ブラフマスートラ註解』に引用された『ギーター』の章句,特に諸写本に見られる異読の分析を手掛かりに,テクスト伝承という観点からカシュミール版ギーターの成立事情について考察する.