月称(Candrakirti)の『中観五蘊論』(Madhyamakapancaskandhaka,蔵訳でのみ現存)は,中観論書でありながら説一切有部のアビダルマ範疇論の解説を趣旨とする特異な一書である.本稿では『中観五蘊論』に関する主要な問題の一つである同論の著作目的について検討する.また,本稿では,中観論書である同論が有部のアビダルマ範疇論を如何に理解していたのかを明らかにするだけでなく,同論が有部のアビダルマ範疇論を解説する際に,その教理に対してどのような中観的な解釈や訂正を加えたのかを考察する.まずは『中観五蘊論』の冒頭と結びの偈頌に基づき,仏教教理の初学者の知を開くために著されたアビダルマ範疇論の綱要書であるという同論の基本的な性格を確認する.その後に,慧の定義に基づき,アビダルマ範疇論を学ぶことで鍛えられる知が無我の理解に資するものであることを明らかにする.さらに本稿では,人々を無我の理解へと導くための基礎教学として有部のアビダルマ範躊論を受け入れつつも,同論が諸法の自性を注意深く回避している点に注目したい.特に,諸法の相互依存性に基づく自性の否定が,慧の解説における法無我の論証のみならず,色蘊における四大種の解説並びに,識蘊の解説においても見出されることを指摘し,両解説の内容を分析することで,その手法を明らかにする.