「私」と「公」は、対立するのか、それとも調和するのか。このような議論は、「私」を滅却する「共同体」に対して「私」を活かす「公共性」を対置するたぐいの常套的な議論と同様に、「私」と「公」とをくっきりと分け隔てる。したがってそれは、「私」と「公」とを、ダイナミックな生成連関においてとらえることができない(注1)。たとえば、異世代間の相互生成を通して、「私」たちはともに生成し、自立するものの共同としての「公共性」を編むことになる。つまり異世代間相互生成としての「教育」によって、先行世代と後続世代の非対称性は、自立するものの対称性へと変容し、公共性が生成するのである。「公共性」は、特定の「状態」ではなく、教育関係や世代継承的関係において不断に生成する「運動」である。教育的公共性、世代継承的公共性は、生成の運動であり、つねに変容しつづける公共性のそのつどの表現である。公共性、教育的公共性、世代継承的公共性は、一連の生成運動に帰属する。公共性は、「教育」の観点からみる場合に、「生成する公共性」としてその—理論を構成し実践に向き合う力としての—ポテンシャルを最大限に発揮できる。